戦争により23歳でこの世を去った「竹内浩三」の残した「人間讃歌」!

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曲目

五月のように
ぼくもいくさに征くのだけれど
ボクガ戦ウ

※組曲 中学時代
うどん
放尿 
東京 
替え歌 
説教 
しかられて

(※大学時代)
江古田の森
金がきたら
金こない
大正文化概論

※組曲 失恋
あきらめろと云うが
麦 
こん畜生

冬に死す

宇治橋

※組曲 兵役時代
帰還
わかれ~御通知
夜通し風がふいていた
演習1~望郷

骨のうたう
ハガキミタ~山田ことば(白い雲)
三ツ星さん
※コンサートの時間などにより、曲目は変更することがあります。ご了承ください。

浩三の心を現代の若者に伝えたい。岩瀬よしのり

竹内浩三の詩に作曲していて、あらためて認識したのは、彼が現代の青年(私とも)と何ら変わらない青春をおくっていたということです。大学(日大映画学科)に通い、芸術論を友人たちと熱く語り合い、毎日喫茶店でコーヒーを飲み音楽を聞き、恋をしてはふられる・・・そんなあたり前の青春が詩に溢れています。
 
1945年4月、浩三はフィリピンのルソン島で戦死してしまいます。彼の役割は「きりこみ隊」という地上における「特攻隊」であり死は決してまぬがれない任務でした。

「長生きがしたい」(宇治橋)と彼は書き残しました。「みんながみんなで愉快に生きよう」(五月のように)とも書いています。23歳という若さで生涯を閉じた彼の言葉の数々は「生きることの素晴らしさ」をいっそう重く明るく照らしているのです。その声を、是非現代の若者に届けたいと思っています。 

竹内浩三略年譜(『竹内浩三作品集』より抜粋)

1921(大正10)年 誕生5月12日 三重県宇治山田市吹上町184番地に生まれる。
1928(昭和3)年(7歳)四月、宇治山田市立明倫小学校入学。
1934(昭和9)年(13歳)4月 三重県立宇治山田中学校入学。
1936(昭和11)年(15歳) 8月、同級の阪本楠彦、中井利亮等を誘って「まんがのよろずや」と題する手作りの回覧雑誌を作成。以来、「MANGA」「ぱんち」等と改題しつつ出しつづける。
1937年(昭和12)年(16歳) 11月、「竹内浩三作品集」と題する文集をつくる。学校への提出物が中心であるが、中にマンガ、日記、ユーモア小説等あり。
1940(昭和15)年(19歳) 4月、父善兵衛が前年に死亡し、それまで父の反対でかなわなかった念願の日本大学専門部(現芸術学部)映画科へ入学。
1942(昭和17)年(21歳) 6月1日、在京中の宇治山田中学時代の友人、中井利亮、野村一雄、土屋陽一と『伊勢文学』を創刊、以後11月までに5号を出す。9月、前年10月公布の勅令第924号にもとづき、日大専門部を半年間繰上げて卒業。10月1日、三重県久居町の中部第38部隊に入営。
1943年(昭和18)年(22歳) 9月20日、茨城県西筑波飛行場に新たに編成された滑空部隊に転属。挺身第5聯隊(東部116部隊)歩兵大隊第2中隊第2小隊へ配属。
1944(昭和19)年(23歳) 1月1日「筑波日記Ⅰ  冬から春へ」執筆開始
1945(昭和20)年(23歳)4月9日、昭和22年三重県庁の公報によれば「陸軍兵長竹内浩三、比島バギオ北方1052高地にて戦死」。

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竹内出征前